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ご挨拶・はじめに

ご挨拶

写真展にお越しいただきまして、ありがとうございます。

私が大学を卒業してイスラエルに行くことになったのには、さまざまな偶然が重なりました。大学2年まで登山サークルに入っていて、その後ドキュメンタリー写真のサークルを作りましたが、同時に私はその頃、日本中に広がっていた学園闘争の渦の中にいました。それが就職シーズンの到来とともにぴたっと終わり、デモやバリケードの中にいた学生たちが一斉に背広に着替えて就職活動を開始した時、私は取り残された気がしました。そこで私は、人生のコースを決めるのを少し先延ばししようと考えて、イスラエルに行ったのです。そしてイスラエルに着いた2週間後に、第三次中東戦争が勃発しました。こうしたことが無かったら、私はフォトジャーナリズムとは無縁の人生を送っていたに違いありません。

私は、取材でもその発表でも「出会い」に恵まれました。そのひとりが、三重県津市で私の写真展事務局を立ち上げてくださった宮西いづみさんです。彼女はこれまでに、日本全国で約800回もの写真展を開催してくださいました。
昨年私は、私がイスラエルでの取材を皮切りにフォトジャーナリズムの仕事をはじめて50年になることを宮西さんに伝えました。彼女は「記念の写真展をしましょう」と即座に言って、準備を始めてくださいました。宮西さんは会場探しに何回も上京し、一緒に東京展の会場を決めました。各地での開催も手配してくださいました。
「語りかける写真展」という構成にしたのは、今のDAYSJAPAN誌の編集長である丸井春です。そして、パネルにお名前を記載させていただいた多くの団体、個人の方々に、言葉では言い尽くせないほどのご支援を頂きました。
宮西さんは今、体調を崩されて病院にいらっしゃいます。彼女にこの写真展を見てもらうことができないことを本当に残念に思います。

ご来場いただいた方々には、私の写真を通じて出会った子どもたちのことを、これからも記憶し続けていただけましたら幸いです。

2018年3月7日

はじめに

知る権利と
いのちのはなし

いのちは平等です。
いのちの尊さは平等です。
誰もがそう教わってきました。
しかし世界では、絶えずいのちが平等でなくなります。
はじめに、そのはなしをしたいと思います。

いのちが平等でなくなるとき、
それは、「いのちの尊厳」が奪われるときです。
私はそういう、人が人として生きる権利を奪われている現場を、
「人間の戦場」と呼んでいます。

私はフォトジャーナリストです。
そして私は、自分の職業にフォトジャーナリストを選んでよかったと思っています。私は、ジャーナリストだからこそ、国家や軍や政府が隠したいと思っている場所にも入る権利があり、大統領にも対等に問いただす権利があると考えてきました。

「加害者」は必ず被害を隠します。
爆弾を落とした責任者は、その爆弾で子どもが殺されたことを隠そうとします。
原発事故を引き起こした責任者は、事故で出た放射能の影響による病気を隠そうとします。
だからこそ、私たちは撮影した真実を守るために、「隠したい人」「加害者」と対峙しなければなりません。
なぜならそれは人々が、本当には何が起こっているのかを「知る」という、私たちの権利を守ることと重なっているからです。

50年間の私の取材生活で、私の周りでは多くの子どもが亡くなっていきました。
私が難民キャンプに行くたびに、私の服の裾をつかんで後ろをついて来たハイファという名の7歳くらいの女の子がいました。彼女はその数年前に爆弾で父を亡くし、爆撃のショックで言葉を失っていました。ブルジバラジネという名のパレスチナ難民キャンプで、私たちはいつも一緒でした。
ある日東京にレバノンから電報が届きました。ハイファの家にロケット弾が落ちて、彼女も弟もお母さんもおばあさんも死んだのです。

私はいつ頃からか、人間の尊厳が踏みにじられる場所を「人間の戦場」と呼び、
その写真を撮るようになりました。

パレスチナ

今から70年前の1948年、イスラエルが建国され、70万人以上のパレスチナ人が土地を奪われ、難民となりました。
私が初めてイスラエルに行ったのは1967年です。この年に起こった第三次中東戦争で、イスラエルはパレスチナ人が住んでいた東エルサレムとヨルダン川西岸地区、ガザ地区などを占領しました。この頃、イスラエルの新聞には、「占領は抵抗を生み、抵抗運動は弾圧を生み、弾圧はテロを生み、テロは報復テロを生む」という意見広告が現れ、やがてそれは現実となりました。
イスラエルは今もパレスチナ人の土地を奪い続け、そしてユダヤ人の入植地を作り続けています。パレスチナ人は怒り、抵抗し、絶望しています。

私の前に現れた最初のパレスチナの子どもは、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに占領されたガザ地区で、太鼓売りをしていた少女でした。その太鼓は素焼きの壷にヤギの皮を張った粗末なもので、私はひとつ買って、イスラエルに戻るバスに乗り込みました。彼女は窓の下で、もうひとつ買ってくれないかと迫りましたが、私はもう持てないからいらないというそぶりをしました。彼女はがっかりした顔をしました。
私は難民の女の子がお金に困っているのだからと、ポケットから小銭を出して紙に包んで、彼女の方に投げました。それは彼女の足元に落ちて、騒がしい音を立てて散らばりました。それを聞いた周りの子どもたちが走ってきて、お金に群がりました。
しかし彼女は拾いませんでした。そして私をにらみました。
彼女は哀れみを乞おうとしたのではなかったと、私は気が付きました。彼女は太鼓を売って、その正当な報酬を得ようとしただけでした。さらに彼女の目は、自分たちがこのような状態になったのは、あなたたち世界中の責任でしょうと告げていました。そして同時に彼女の目は、人間としての毅然とした尊厳をたたえていて、私を圧倒しました。この時私は、24歳でした。

私は後になって、私が撮影した被写体が、私をフォトジャーナリストにしたと確信するようになりました。私は私の写真に映りこんだ人々のおかげで、フォトジャーナリストになったのです。

さらにこんなことがありました。
1976年に私がイスラエルの中のパレスチナ人の村に行ったとき、ひとりの男性が涙を流して、「なぜいまごろ来たんだ。1か月前に来ていたら俺の息子は殺されずにすんだんだ!」と私に向かって叫びました。
驚いて聞くと、この男性の息子は、イスラエルに土地を奪われることを拒否す「土地の日」の闘いに参加したために、殺されたといいます。そして彼は続けました。
「外国人ジャーナリストという証言者がいるところでは、イスラエルは銃の乱射などという暴挙はできなかったはずだ」
それで私は、ジャーナリストという仕事は、何か起こった時に結果を伝えるだけが仕事ではなくて、起こってはならないことを防ぐことも仕事なのだと理解したのです。
そして私がイスラエルに行き、パレスチナ問題に出会ってから、2017年で50年目を迎え、2018年はイスラエルという国が誕生し、パレスチナ難民が発生してから70年目になります。

アフガニスタン

2001年9月11日にアメリカで同時多発テロ事件が起こり、3000人以上が犠牲になりました。犯行声明を出したアルカイダをかくまったとされるアフガニスタンへの米軍の攻撃はその年の10月7日に開始されました。
メディアは米軍とアフガンの北部同盟軍による爆撃の報道で明け暮れました。それは攻撃する側の報道であり、被害者のことはめったに伝えられませんでした。まるで爆撃で殺されたのは「テロリスト」だけのような報道でした。

2001年11月から12月にかけて、私はアフガニスタンの取材をしました。世界のジャーナリストたちが米軍の空爆を実況中継している傍らを通り、さらに数日前にジャーナリスト4人が殺された街道を通って、首都カブールに出て、雪に覆われた北部の避難民キャンプを目指しました。

最北部の避難民キャンプでは、人々は「ジャーナリストたちはキャンプを素通りしていきました。ここには医者も救援の手も届きません」と言いました。そして多くの子どもたちが、毎日死んでいきました。

2度目にアフガニスタンに行ったのは翌年で、アメリカの「誤爆」の実態を調査するためでした。このころアメリカには「ボディカウント」というアメリカの団体が、現地のメディアが伝えた市民の死者数を報告していました。私はその数を地域別に整理して、爆撃の現場を訪れ、報告の数字が本当かどうかを調べていきました。
米軍がテロリストの基地を爆撃したと報じているところに行ってみると、実際は村の市場が爆撃され、200人もの住民が埋まったままになっていました。
2011年暮れには、避難民キャンプや病院や米軍を取材しました。そして2012年暮れには、米軍の爆弾処理部隊と、村々の住民たちを取材しました。このころになると南部や東部を取材することはおろか、カブールの市内を歩くことも大きな危険が伴うようになっていました。住民のほとんどは、「治安が良くなる兆しは何もない」と言っていました。そしてその人々の予測は現在どんどん真実となっています。

イラク

私がはじめてイラクを訪れたのは1991年で、湾岸戦争の取材のためにクウェートとイラクの双方を訪れた時でした。防空壕が米軍に爆撃され、数百人の人が死んでいました。
2003年には、計3回のイラク取材をおこないました。2月には、経済封鎖されたバグダッドから南部のバスラを取材、3月から4月までは、イラク戦争で爆撃下のバグダッドを取材しました。
5月、いったん日本に戻った後に再びイラクに引き返した私は、米軍の空爆の跡を訪ねました。

支配者あるいは戦勝者は、自分たちに都合の悪い記録を消してしまいます。日本はイラク戦争に、アメリカの要請によって加担しました。被害者に対しては責任があるのです。だから被害を調べて、誤爆であれば遺族に謝罪して、補償金を支払うべきです。この時、私はバスラの白血病専門病院に、託された支援金を届けました。
2004年になると、日本を含む世界のメディアは、イラク戦争は終わった、これからの問題は『復興』であるかのごとく伝え始めました。しかし、『イラク戦争で何が行われたのか』の検証さえ、ほとんど取り組んでいないのが実情でした。

私たちが「知るべき情報」から
慎重に目隠しされるとき、
私たちは警戒しなければなりません。

日本では「戦争は遠い国のこと」と、多くの人が思っていますが、これも私たちが目隠しされている結果です。人々は他国の戦争と自分たちが無関係だと思ってしまっています。
しかし、イラク戦争のとき、私たち日本は攻撃する側のアメリカを支援し、アフガン戦争の時、アフガンの村々を爆撃した爆撃機の燃料には、日本の税金が使われました。
無関係ではなかったのです。
そして戦火の大地では、子どもを含む、ふつうの生活をしていたふつうの人々が、命を落としていきました。

そのときに日本やアメリカで、これらの戦争がどう伝えられていたでしょうか。
「これはテロリストから市民を守る『対テロ戦争』です。だからこの戦争は正しいんです」というふうに、市民の犠牲者や、米兵が負傷している写真は、慎重にメディアから排除されたのです。

本当は何が起きていたか。
「対テロ戦争」という名前のテロ戦争です。

「テロリスト」を倒し、イラク国民に「自由」をもたらすはずのアメリカは、
開戦から何年もイラク国民に銃口を向け続けました。
さらに、米軍が大量に使用したクラスター爆弾は、
長い間、多くの市民を殺傷し続けました。

たくさんのいのちが亡くなりました。
忘れてはいけないことは、あの戦争で、私たちは知らず知らずのうちに爆撃に「協力」し、知らず知らずのうちに「加害者」にもなってしまったのです。

だからこそ、私たちジャーナリストは、国や政治をきちんと「監視」しなければならないと考えています。

もうひとつ。「テロ」を武力や占領で制圧しようとするとき、何が起こるのでしょうか。
米軍は、一般市民の被害を「付随的被害」と呼び、軍事目的のために「仕方のないもの」だとしています。
しかし、無抵抗の市民が殺された時、人々の怒りは全土に広がりました。やがて、そんな絶望や怒りの中から、新たな「テロリスト」が、首をもたげたのです。

イラクでは、イラク戦争とその後の占領軍による爆撃で、50万人以上の市民が犠牲になったと言われています。米軍の犠牲者も膨大で、イラクでは、米軍が撤退した2011年までに約4500人の米兵が、アフガニスタンでは2017年までに2400人以上の米兵が命を落としたと言われています。

しかし、「テロリスト」とは、誰でしょうか。多くの人は、一般市民を殺戮する人物や勢力こそがテロリストだと考えると思います。しかし実際は、アメリカやそれに追随する勢力(日本も含みます)に反対する人々や勢力が、「テロリスト」と呼ばれていることが多いのです。

戦争や占領に大義などありません。
誰が何と言おうと、数十万の子どもの死者を出す大義名分など、世界に存在するわけがないのです。

コンゴ民主共和国(コンゴ)

ノーベル平和賞受賞者でユダヤ人のエリ・ヴィーゼルは、ナチスの収容所アウシュビッツでとらわれていた人です。彼は「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」と書きました。無関心で第2次大戦後最多の死者を出した国と呼ばれているのがコンゴです。紛争による住民の死者指数は540万人(その半数は5歳以下とされています)といわれ、その悲劇は日本にもほとんど伝わりません。
2016年の数字では、毎日平均5000人が家を追われているといわれています。また国連人口基金による統計では、1998年以降推定20万人の女性(少女を含む)がレイプ被害を受けているとされています。
争いの原因は、主にタンタル鉱石、ウラン(広島に落とされたアメリカの原爆は今後のウランを用いた)、ズズ、ダイヤ、マンガンなどの地下資源や森林資源です。
特にコルタンなどのレアメタルは、携帯電話、ゲーム機、パソコンなどに使われるため近年利権がからみ、大国の代理戦争の様相を呈しました。また森林の木材資源の乱伐で森が消え、そこに住むゴリラが大量に殺されました。
世界の難民を「気の毒な人だけど彼らの悲劇と私たちの生活が関係ない」と考える人が日本にも多くいます。しかし私たちの携帯電話がこの人々の悲劇とつながっていると聞いたら、どうするべきでしょうか。DAYSより

チェルノブイリ

1986年4月26日未明に起こったチェルノブイリ原発事故で、ベラルーシとウクライナでは、何百もの村や市が廃墟になり、広大な土地が立ち入り禁止地区になりました。
私はこれらの消えた村々を撮影して回り、写真集『チェルノブイリ消えた458の村』(日本図書センター)にまとめました。
原発の事故は、人々から健康やいのちを奪い、故郷を奪いました。
しかし多くの専門家たちは、甲状腺がんをはじめ、放射能による病気の多発を絶対に認めようとしませんでした。彼らが甲状腺がんの多発と、それが放射能の影響によるものであることをしぶしぶ認めたのは、事故から10年後でした。
専門家たちは、「放射能を恐れる気持ちが病気を生み出しているのだ」と言い、「放射能恐怖症」という言葉を広めました。この流れと全く同じことが、25年後に日本でも起こります。
当時、チェルノブイリ原発事故で汚染されたベラルーシとウクライナは、被曝した人々を助けようと必死になりました。「チェルノブイリ法」という法律を作って、国が被災者の救援に当たったのです。

そのひとつの成果は、汚染地に住む子どもたちのための保養施設の運営です。私が日本ではじめた「チェルノブイリ子ども基金」も、被災した子どもたちが抵抗力を得たり、免疫力を高めるための保養施設を、ベラルーシとウクライナに作る運動に参加しました。
甲状腺がんになった子どもたちの救援も続けました。甲状腺がんや他の病気の子どもたちの保養への参加は、私たちが始めたことです。

保養施設は汚染地の子どもたちを年間を通じて受け入れ、その運営資金の多くを、「チェルノブイリこども基金」が出しました。そして病気の子どもを受け入れた時には、日本から多くのボランティアを送り出し、毎年「日本週間」を開催しました。私はジャーナリズム教室を開きました。
その教室である日、私は甲状腺がんで手術をした子どもたちにこう聞いたことがあります。
「みんなは、どうして甲状腺の手術をしなければならないことになったんだろう?」
「病気になったから」と、ある子が答えました。正解です。
でも私は、続けてこう話しました。
「それは、原発事故について、みんなが知らなければならない情報が正しく伝えられなかったからです。人々が健康で幸せに生きるための当然の権利を守るためには、『知る権利』が必要です。でもここれは、人々の『知る権利』は守られませんでした。大切なことが隠されてしまったのです」と。

「知る権利」は、
いのちとつながる、幸せに生きることにつながる、
とても大切な私たちの権利です。

津波

2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖でマグニチュード9.0という、地震が発生しました。
私はそのとき世田谷区松原の明大前駅近くのDAYS JAPANの編集部にいました。何度も押し寄せる大きな揺れに、驚きました。その時DAYS JAPANの仕事は印刷所に回っていたのですが、印刷所が大混乱で機能しなくなったので、印刷できないと連絡が入りました。
私は表紙と何ページか、津波の写真で差し替えて、新しい版を作り、印刷を指示して、翌朝に福島に向かいました。そして拠点を福島に置いて、原発事故の取材と宮城県や岩手県の津波被害の取材をおこないました。
津波の息をのむような凄まじいツメ跡の撮影をしていくときに、多くの事が心に残っています。道路を封鎖していた消防団の若者に、取材なので入れてほしいというと、彼は泣きそうな顔で、自分を含めて行方の分からない家族がいる人間ばかりなんだ。それでもギリギリのところでこの仕事をしている。分かってほしい」とのことでした。 私はお詫びして、道を引き返しました。
南相馬の津波跡では、消防団の人が行方不明者を探していました。彼のおじいさんも行方不明だと言っていました。南相馬は放射能で汚染されているとして、救援物資も届きませんでした。陸の孤島になっていたのです。
私は1週間ほどで東京に戻り、次は救援物資を満載して戻り、南相馬だけでなく宮城県岩手県の避難所に配る仕事をはじめました。
2017年3月現在、死者は15893人、行方不明は2553人といわれています。

福島

2011年3月11日。
日本を巨大な地震と津波が襲い、福島第一原発が爆発しました。
たくさんの放射能が飛散し、それは雲や風に乗って流れ、日本の広い範囲に降り積もりました。4号機の使用済み核燃料が入っていたプールが爆発寸前というニュースが流れ、政府の試算では東京も避難しなければならない、と伝えられました。幸いその事態には至りませんでしたが、私たちは私たちがどれだけの危機に直面していたか、知っておく必要があります。

放射能があるという理由で、津波の被害者の捜索も難航し、原発から7キロの浪江町請戸(うけど)地区に捜索の手が入ったのは、事故から1か月も後のことでした。

3月13日、私は原発からわずか2〜3キロの双葉町に入りました。この時、私がもっていた放射能測定器は、振り切れました。毎時100マイクロシーベルトまで測定できる機械でしたが、放射能が高すぎて計測できなかったのです。
チェルノブイリの取材中でも起きたことがないことで、驚きました。
この時ラジオからは、政府の「ただちに健康に影響はありません」
「放出した放射能は微量です」という放送が繰り返し流れていました。
私がいた場所の放射能の値が1.5ミリシーベルトだったと発表されたのは、それから2か月以上後でした。

私たちの「知る権利」はきちんと守られたのでしょうか。
私たちは守られているのでしょうか。

私たちが1年間であびてもよいと法律で定められている基準は、年間1ミリシーベルトという値です。
これは、多くの国が採用している、国際的に認められている数字です。
しかし、日本政府は福島第一原発事故後、福島県の基準値を20ミリシーベルトまで引き上げてしまいました。
そして、「福島では安全基準が20ミリシーベルトになりました。だから、年間20ミリシーベルト以下の場所には、子どもも大人も戻って住んで問題ありません」と言ったのです。

福島第一原発の敷地内は今、放射能の汚染水をためているタンクでいっぱいです。汚染水は毎日増え続けます。
2015年3月、福島第一原発から高濃度の汚染水が海に流れ続けていたことが発覚しました。
それまで東京電力や政府は、「汚染水はコントロールされている」と私たちに伝えてきました。しかし実際は海に流れ出ていて、東京電力は、「公表するべき情報と思わなかった」と言いました。
2017年末になっても、沿岸で吊り上げられたサメから、基準値を大きく上回る放射能が検出されています。

そして今、専門家を名乗る人々が、原発事故の影響などまるでないかのように動き始めています。彼らは、
「甲状腺がんは放射能のせいではない」
「甲状腺を検査したら人々が不安になるだけだから、検査しない方がいい」
「甲状腺がんは心配のないがんなので、がんという検査結果も知らせなくてもいい」
「福島では放射能で病気になる人はいない」などと繰り返します。
専門家を名乗る一部の人々によるこのような発言は、どんどんまかり通って、今や、県による甲状腺検査までも廃止になろうとしています。次に事故が起こっても彼らは同じことを言い続けるのでしょうか。

いのちは、きちんと守られているでしょうか。
守られるでしょうか。

終わりに

長くなりました。
でも、私たちの「知る権利」と、人々のいのちが、とても強く結びついていることを、少しだけ分かっていただけたのではないかと思います。

人間は、すべてのことにいさぎよくあることはできないと思います。
しかし、これだけは許せないと思ったとき、そこでシャッターを切り始めたい。
人間が本当に守らなければならないものが分かれば、権力と闘っても、身体を張ってでも伝える気概が自然と生まれるものです。

最後になりましたが、将来、たくさんのジャーナリストが「知る権利」を守る仕事についてくれることを期待しています。

そして、人々が「知る権利」を持っているのは、すべての人間に、「生きる権利」もっと言えば「健康に幸せに生きる権利」が備わっているからです。
しかしその権利があらゆるところで踏みにじられているのが、この世界でもあるのです。

Introduction

About the right to know the truth and the dignity of our lives

We are equal so is the value of our lives. We have learned it; however, our lives are often treated unequally in this world. I would like to talk about this crucial issue.

The dignity of our lives is impaired when we are treated unequally. I have kept calling the places where the right to live is denied the 'human battlefield'.

I have worked as a photojournalist for years; and I am happy to have chosen journalism as my lifetime occupation. I believe that I as a journalist can go anywhere as well as question the people in power even though most authorities likely try to hinder my work.

Every offender tries to hide the damage he or she has caused; those who are responsible for bombing are likely to hide the fact that children were sacrificed while others who caused nuclear accidents try to underestimate the damage of radiation exposure. I think we journalists should face these offenders and those who want to conceal the truth. So I have faced them in order to protect what I actually witnessed and recorded. These actions exactly overlap the right to know the truth.

Throughout my fifty years career in journalism, I saw a great number of children being killed mercilessly. I met one of those child victims in Lebanon. Haifa is a Palestinian girl of seven-year-old or so living in a refugee camp. She lost her father in a bombing and since then she had lost the ability to speak. While at the camp, she always followed me pulling the hem of my shirt. Later in Tokyo I received a telegram saying that she was killed by a missile which fell on her house. She was in the house together with her younger brother, mother and grandmother, all of them were killed at once. Before realizing it, I began to call places where the dignity of our lives is impaired the 'human battlefield. I have been photographing the 'human battlefield' for years.

Palestine

In 1948, the State of Israel was founded; due to this event, more than 700,000 Palestinians were forcibly evicted from their home and since then they have been called refugees. I first visited Israel when Israeli forces invaded East Jerusalem, the west bank of the Jordan River and the Gaza district during the Six-Day Middle East War which broke out in 1967. At that time, an advocacy ad happened to catch my attention, the ad read "Occupation yields resistance, resistance yields oppression, oppression yields terrorism, and terrorism yields retaliatory terrorism." This prophecy was proven true soon after. Israel has kept occupying the Palestinians' land and expanding their territory until today. The Palestinians are enraged, resisting and in despair.

One day in Gaza, just before riding a bus, I bought a toy drum from a Palestinian girl, a peddler. The drum was coarsely made of an earthenware pot and a patch of goat skin. Outside under the bus's window, she tried her very best to sell me another drum, but I declined gesturing that I could not afford to carry even one tiny drum. Since she seemed disappointed, I threw some coins wrapped in a piece of paper at her feet. As soon as the coins noisily fell onto the ground, the children around her dashed to pick up the coins, but she did not. When she glared at me, I finally understood she was not begging for mercy. She wanted to sell the drum and be rewarded for her work. I was overwhelmed with her unspoken message saying it was our fault to put her and her fellow Palestinians into great misery; also, I was impressed with her being so undaunted. It was my first time to encounter a Palestinian child. I was 24 years old then.

Later I realized that the subjects of my photos made me become a full-fledged photojournalist. So, let me show you an example. In 1976, when I visited a Palestinian refugee village, a villager, shedding tears, walked toward me and blamed me for not having come there one month earlier and not preventing a random shooting. His son was killed in the shooting. He continued to say that if I, a third-party witness was there during the 'Day of Land' protest, the mass shooting by Israeli soldiers would not have taken place. His son took to the streets refusing to relinquish their ancestral land and was shot to death. Thanks to him, I came to understand what journalists should do; we should report what happened and prevent contingencies from happening as well.

The year 2018 is the anniversary year for Israel, Palestine and me. The Israelis are celebrating the 70th anniversary of the foundation of the State of Israel this year. On the other hand, 70 years ago in 1948, the Palestinians were evicted from their home and became refugees. And fifty years have passed since I first visited Israel and began to face the Palestinian issue.

Afghanistan

On September 11th in 2001, more than 3,000 people were killed in the 9.11 terror attacks that the al-Qaeda terrorist group claimed responsibility for. On October 7th that year, the US forces started to invade Afghanistan since the Bush Administration accused the Afghan government of giving shelter to the al-Qaeda terrorist group. Since then the media had kept reporting on an exchange of bombing between the US Army and the Northern Alliance. The reporters dispatched by the US side far surpassed in number their counterparts sent by the attacked. So, one-sided incorrect messages of the war were reported / broadcasted such as only 'terrorists' were killed there.

I did my on-site reporting in Afghanistan from November to December of 2001. Foreign journalists including me passed by TV crews who were broadcasting bombing live from Afghanistan. We drove along highways where four journalists lost their lives a few days ago; and went to refugee camps built on the snow-capped mountainside in the northern area. At the northernmost camp, people said "Journalists passed by without stopping. Neither doctors nor rescue parties are here." Many children were dying there one after another every day.

The next year I returned to Afghanistan in order to check up on the reality of the 'accidental bombings' by the US Army. At the same time a civilian group called 'Body Count' had already reported the number of casualties with the help of the local media. Organizing the data in every region and visiting bombing sites, I examined the authenticity of the numbers. One day I went to a place where the US Army claimed they had attacked a terrorist base; however, I found it was not a base but a local market and about 200 corpses remained under rubble. At the end of 2011, I did stories on refugee camps, hospitals and the US forces; and at the end of 2012, I met with US bomb disposal units as well as local residents in order to collect some information. By this time, not only the southern and eastern regions but also Kabul, the capital of Afghanistan had become too dangerous to just walk around in. "There's no sign of any improvement in security," many local residents said. What they said has exactly been proven true nowadays.

Iraq

I first visited Iraq in 1991 for my research on the Gulf War in Iraq and Kuwait, the neighboring country. Air-raid shelters were being bombed and millions of people were being killed there. In 2003, I revisited Iraq and did three stories there; in February, I went to Bagdad and Basra, both of which and the surrounding area were under an economic blockade then; from March to April I revisited Bagdad which was under an exchange of bombing; and in May I left Japan for Iraq again and visited the sites where the landscapes were ruined by the US air raids.

Rulers / victors are likely to whitewash their inconvenient truth. Japan was involved in the Iraq War in response to the US government's request. Japan was responsible for some of the victims of the war; so, the Japanese people should have investigated the damage, apologized and compensated the bereaved families of these accidental bombings. While in Basra, I visited a leukemia hospital and gave them some donations that I had been entrusted with. In 2004, the international media including its Japanese counterparts had begun to say "The Iraq War was over. The problem we are now facing is 'reconstruction'." Since then the media have been turning a blind eye to 'what actually happened during the war'.

When we realize that we are skillfully blinded to 'what we must know', we need to be more cautious than ever. The Japanese people tend to think 'every war takes place somewhere far away' from them. This sentiment is a typical example of them being blinded to the truth. During the Iraq War, the Japanese government was on the side of the US government, the perpetrator; during the Afghan War, our tax money was used for refueling the US bombers that were killing many people who were living in the Afghan countryside. Thus, the Japanese are not innocent bystanders to the killings and destruction in these countries. Those who died there were innocent children and adults, but not terrorists. How did the US media as well as its Japanese counterpart report these wars then? They skillfully deleted the images of civilian casualties and wounded US soldiers; at the same time, they insisted "the US Army fought against terrorists in order to protect civilians, so this war is a war of justice."

What actually happened there? We have often heard that these wars were the 'wars against terrorism'. The US government claimed American soldiers were defeating 'terrorists' and as a result, the Iraqis would enjoy freedom. Actually the US soldiers had kept on killing the ordinary Iraqis for years from the beginning. Also, they dropped a great number of cluster bombs on the Iraqis in order to wound and kill them. The Japanese people must remember that the Japanese government fought these wars with the US government; the Japanese were involved in these wars. We journalists must view with the critical eye the governments' behavior and politics.

Let's imagine what will happen when we choose to curb terrorism with our armed forces. For instance, the US Army used the word 'collateral damage' for any civilian damage. They insisted that 'collateral damage' meant 'unavoidable' as it relates to military purposes. However, once the Iraqis realized that the victims were children and unarmed ordinary citizens, they became enraged, their fury spread throughout Iraq, and finally their fury and despair gave birth to many more 'new terrorists'.

It was reported that the number of civilian casualties of the Iraq War rose to more than 500,000 which included the citizens killed by the occupation forces. When it comes to the US soldiers killed in action, in Iraq until 2011 about 4,500 died and in Afghanistan until 2017 more than 2,400 lost their lives.

Who do you think are the 'terrorists'? Many people think they are those who are slaughtering innocent civilians. Due to this incorrect but popular belief, the word 'terrorist(s)' is often used as a synonym for a 'merciless members of a group of killers', the enemy of the US, Japan and the allied nations.

Any war or military occupation has no good cause. No matter how someone is trying to justify the cause of war, there is no noble cause in killing hundreds of thousands of children.

The Congo (the Democratic Republic of the Congo)

“An antonym of the word ‘love’ is not ‘hatred’, but ‘indifference’,” said Elie Wiesel, a Nobel Peace Prize winner. Elie Wiesel, a Jewish American writer / an ex-prisoner of the Auschwitz Concentration Camp, won the peace prize for his work on his life in the Nazi concentration camp.

In the Congo, the death toll of local conflicts rose to 5.4 million, the biggest in number in the history of the post war era. It is said that half of the 5.4 million casualties were babies/infants of five years old and younger. These tragedies in the Congo have rarely been reported in Japan. In other words, our ‘indifference’ led to the death of the people in the DRC.

As of 2016, about 5,000 people were evicted from their homes in the Congo every day. Furthermore, according to the statistics collected by the UN Population Fund (UNFPA), since 1998 about 200,000 girls and women were presumed to have been raped there.

These tragedies are attributed to the conflicts over Congo’s rich natural resources. The Congo has abundant natural resources such as coltan (colombo-tantalite), uranium*, tin, diamonds, manganese as well as lumber. * The uranium mined in the Congo was used for the atomic bomb which was dropped on Hiroshima.

Coltan, the aforementioned rare metal is used in mobile phones, video game machines and personal computers. With the recent IT boom in the industry, local conflicts in the Congo have been escalating into a proxy war among major powers. Moreover, the Congo’s forests have been disappearing due to reckless deforestation; as a result, gorillas, the endangered species were killed there in mass.

“I feel sorry for the victims, but their tragedies are not related to my daily life,” said many Japanese people. However, how would they react when they understand their mobile phones are closely related to the dead, the raped and the evicted in the Congo, I wonder?

Chernobyl

The Chernobyl nuclear power plant accident occurred before dawn on April 26thin1986 It destroyed hundreds of villages and towns in Belarus and the Ukraine, and the vast area has become a no-go zone. I visited the ruined areas and photographed these decimated villages, and published a photo book Chernobyl 458 decimated Villages (Publisher: Nihon Tosho Center).

The accident took away people's health, lives and homelands. At first, however, many experts never admitted that radiation exposure caused many diseases including thyroid cancer. It was only ten years after the accident that they reluctantly admitted that the increasing number of thyroid cancer patients was a consequence of radiation exposure. These experts kept saying that the fear of radiation caused illnesses, and they spread the idea of 'Radiation Phobia Syndrome'. Twenty five years later we found ourselves being in exactly the same situation in Japan.

Since the governments of Belarus and the Ukraine acknowledged the seriousness of the nuclear catastrophe, the two governments have made every effort to save their people who were exposed to radiation. They enacted a piece of new legislation called the Chernobyl laws in order to protect the victims.

Running recuperation facilities for the children living in contaminated areas was a unprecedented effort that marked an achievement for both countries. Recuperation helps children to improve their resistance to diseases and strengthen their immune systems. The Chernobyl Children's Fund which I started in Japan also helped to build recuperation centers in Belarus and Ukraine. These centers are open throughout the year to the children from contaminated areas, and our fund has been providing part of the running cost.

Every year, the Chernobyl Children's Fund carries out a special recuperation program for the children suffering from thyroid cancer and other diseases. We sent many volunteers to the special program from Japan. When we held the 'Japanese Week' events and I took charge of journalism classes, I asked children who had their thyroid gland removed, "Why do you think you had to have a thyroid gland operation?" "Because I'm ill," a child gave me a right answer. But I continued, "It is because you haven't been given the necessary / correct information about the nuclear accident. We need to have the 'right to know' so that we can protect the right to be in good health and live a happy life. Unfortunately, the 'right to know' has not been established there. Important things were hidden at that time."

The 'right to know' is a very important right for us in order to live and be happy.

The Tsunamis

At 2:46 pm on March 11th in 2011, a magnitude 9.0 earthquake, triggering great tsunamis, occurred off the coast of Miyagi Prefecture. When the ground started shaking, I was in the editorial staff room of the Days Japan magazine in Setagaya Ward in Tokyo. The violent jolts due to the tremors which happened over and over again scared me to death.

By that time, the newest issue of the Days Japan was ready for printing. However, I was informed that it was impossible to print the magazine there due to the mess caused by the earthquake; I hurriedly replaced the cover and several pages with new ones featuring the tsunamis. Then I sent the newest edition to be printed, giving some instructions to the print shop. The next morning I left for Fukushima, set up a base there and started doing some stories on the nuclear disaster in Fukushima Pref. as well as the damage of the tsunamis in Miyagi Pref. and Iwate Pref.

While doing some stories on the terrible scars of the tsunamis, I had numerous unforgettable encounters. One day when I tried to cross a blockade, I asked a young men vigilantly standing there if I could cross the ‘Do Not Enter’ line. The man, a member of a local fire brigade said “Every survivor here has one or more family members still missing; I am no exception. But I am doing to full extent of my duties. Please understand that.” He was holding back his tears at that time. I apologized to him and turned back.

On the coast of Minamisoma in Fukushima Pref., I met a member of a local fire brigade searching for the missing. He said his grandfather was still missing. The city of Minamisoma became an inaccessible area because of the radiation contamination at that time. Few relief goods reached there.

Fukushima (media coverage and rescue operations)

On March 11th in 2011, due to the release of hydrogen gas, three reactor buildings exploded after a huge earthquake and following tsunamis hit the Fukushima No.1 nuclear power plant. The stricken buildings of the plant spewed a large amount of radioactive materials in all directions. So, the soil and water in vast area in Japan was contaminated by radioactive isotopes. When the spent fuel pool of the No.4 reactor was on the brink of explosion, the government planned to expand the size of the evacuation zone further to the Tokyo area. Although this worst case scenario was barely avoided; we should remember how critically the Fukushima nuclear crisis was evolving at that time.

The high radiation dose had hampered the search for survivors for a long time. The tragedy of the earthquake and tsunami victims in the Ukedo district in Namie Town, located just 7 km from the No.1 plant, suggests how difficult it was to carry out rescue operations in the highly contaminated areas. The survivors were abandoned in Ukedo for one whole month until the first rescue team entered the district. Most of them were found dead at that time and many still remain missing.

I was in Futaba Town, just a few kilometers away from the Fukushima No. 1 power plant, on March 13th; my Geiger counter suddenly swung past its maximum. The Geiger counter's maximum was 0.1mSv/hour. I was so shocked because I had never experienced such a high dose of radiation even in Chernobyl. The government's statement "No immediate health risk was confirmed and low radiation exposure levels were observed" was repeatedly broadcasted on the radio, and this puzzled and annoyed me. Two months later the government announced that radiation dose in Futaba Town was 1.5mSv/hour.

Was the 'right to know' protected? Or has it been protected?

The maximum permissible radiation dose is determined to be 1mSv/year by law. This is a universal standard. But the Japanese government raised the maximum to 20mSv/year in Fukushima Prefecture. They announced "We raised the maximum dose to 20mSv/year in Fukushima. It is harmless for everyone including children to return home and live anywhere the dose is 20mSv/year or less."

Today, inside the site of the Fukushima No.1 plant, a large number of tanks filled with contaminated water are standing side by side. More tanks of polluted water have been added day by day. In March of 2015, highly contaminated water was found leaking into the nearby sea. Until then Tokyo Electric Power Company (Tepco) and the government had kept saying "The polluted water problem is now under control." Actually, contaminated water had been leaking into the sea; Tepco nonchalantly said "We did not think we had to announce the water leaking issue." At the end of 2017, a shark whose radiation dose was far higher than the standard level was caught off the coast of Fukushima.

Nowadays, those who called themselves 'nuclear experts' are busily going about their work, pretending as if the Fukushima nuclear accident had done no harm to them. Trying to spread their false safety theory, they have kept saying "The onset of thyroid cancer was not caused by the nuclear accident," "People always become nervous after taking thyroid examinations, so they'd better not take a thyroid examination," "Checkup results, even the cancerous positive ones, don't necessarily have to be informed to examinees because thyroid cancer is harmless," and "Nobody fell ill from radiation exposure in Fukushima." What these 'bogus experts' said is going unchallenged and is putting pressure on the Fukushima prefectural government to abolish the thyroid checkup system. Are they going to repeat these same comments when the next nuclear accident occurs, I wonder.

Has the right to live been adequately protected? Will it be protected?

Final Chapter

I may have said too much, but I hope my message sheds light on how closely the 'right to know' is related to the dignity we have in our lives. I know we cannot always live undauntedly. However, if I see something that I cannot forgive, I will undauntedly start reporting on it with my camera. If we realize the need to protect what needs to be protected, we will daringly do this by devoting body and soul to it even if we must fight against those in power.

Finally, I hope many more journalists commence work on protecting the 'right to know'. Since we all have the 'right to know', we have the 'right to live' and more precisely the 'right to be in good health and live a happy life'. Alas, I have witnessed so many times this right being completely ignored everywhere.

(Transration:Michiyo Kato)